事件





薄暗い部屋の中に男が二人いる。傍らには血に濡れた人間が一人、倒れている。奥にいたスーツ姿の男が、手前の、彼よりは若い男に手を伸ばしかけた。若い男は足下に落ちていた血塗れのナイフを掴むと目撃者に斬りかかった。一回、二回、三回。犯人が勢い余ってよろめいたところを、目撃者が取り押さえる。

「ちょっと天気予報見せて。」
俺は返事も聞かずにリモコンのボタンを押し、テレビのチャンネルを変えた。あっ、と母さんが非難の目を向けている。テレビでは天気予報はやってなくて、代わりにまたどこかで起きたらしい少年犯罪について大人たちが難しい顔をしていた。
『この少年は警察の取り調べ一切に黙秘しており…』
『少年は日頃から人の注目を浴びたがっていたという証言が…』

俺の目の前の大人は画面の向こうの難しい顔なんて気にもとめず、俺の手からリモコンをひったくった。お天気なら電話ででも聞けるでしょ。そう口を尖らせてチャンネルを戻すと、場面は取調室に移っていた。目撃者と犯人は小さな部屋で無機質な灰色のデスクを挟んで座っている。スーツの男は刑事だったらしい。刑事は神妙な顔でお約束の台詞を言う。
『何故、こんなことを?』
犯人は何も答えない。

リリリリリ リリリリリ

電話が鳴っても、サスペンスを見ている時、母さんが動くことはない。サスペンスのどこがそんなにいいんだか、と首を傾げながら居間を出て受話器を取る。かけてきたのは鉄平で、おばさんがバイクで事故ったから、明日の約束は取りやめにしてくれってことだった。サスペンスなんかじゃない、俺の身にはいつ何が起こるんだろうって毎日待ち望んでいる、本当の「事件」だ。俺はつい弾みがちになる声を抑えながら鉄平と少し話して、居間に戻ると母さんにそのことを伝えた。
「ついに鉄平まで『事件』だよ。羨ましいなあ。」
「あんたね、そういうことは言うもんじゃないわよ。人間、何事もないのが一番なの。」
現実で何もない代わりにサスペンスを見るのか、とは言わずには〜いと生返事をする。全くもう、とでも言わんばかりな溜息を背中に聞きながら、俺は犬の散歩のために家を出た。





公園の木陰で休憩していると、急に声をかけてくる人がいた。
「明子は昔と変わらず、美人なんだろうね。」
まさかいきなり母さんの名前が出るとは思ってもみなかった俺は、多分傍目に見ても分かるくらいに反応していたと思う。突然現れたその人は、歳は三十代後半から四十代前半くらいの、スラリと背の高い男だった。灰色のスーツで身を固め、癖のない黒髪を顔の真ん中で分けて左右に流している。低すぎない声で、少し人をからかうような喋り方をする。
「そんなに驚かれるとちょっと申し訳なくなるな。」
男は苦笑いで俺の側に座り込んだ。俺は男の姿をじろじろ見たまま、ちょっと身を引いた。
「…何なんですか、あなた。」
待ってましたとでも言わんばかりに、男は俺を見てニヤリと笑い、顔を近づけて囁くように言った。
「人殺し。」
慌てて立ち上がろうとして、待てよ、と考えた。まさか自分の犯罪を他人に言うような殺人犯がいるか?しかも、他にも沢山人のいる公園なんかで。いや、いるわけがない。きっと俺の反応を見て楽しんでるんだ。ガキだと思って甘く見てるに違いない。それならこのまま話を聞いて、ボロを出させてやる。そう思い直して、俺は怖々座り直す振りをした。
「何で、殺したんですか?」
思った通り、男は意外そうに俺を見てからさらに顔を寄せてきた。
「当時、本気で愛し合ってた女性がいてね。彼女のお腹には僕の子どももいた。でも…君にはまだよく分からないだろうけど、色々な事情があってね…僕は彼女と結婚するために、ある男を殺したんだ。」
ここで男は一つ息を吐き、また苦笑した。
「けど、僕がそのことを彼女に言ったら、彼女、何て言ったと思う?『何て事したのよ、人殺し!』…そう言ったんだ。まるで、胸に杭でも打たれたような気分だったね。」
そりゃあそうだろう、父親が殺人犯なんてその子どもが可哀想だ、と思いながら聞いていた俺は、男の次の言葉で思わず息を呑んだ。
「裏切られた、そう感じた。」
言葉とは裏腹に、その顔には少し歪んだ笑みがある。その表情を見て、ようやく俺はいつの間にか男の話に入り込んでいた自分に気が付いた。そうだ、これは嘘なんだよな。
「で、その人に復讐はしたの?」
前のめりになっていた身体を起こしながら軽い口調で聞くと、男は答えず、ただくすくすと笑った。
「…本当は、何やってる人?」
「僕は刑事だよ。警察手帳もあるけど…見たい?」
俺はよっぽど顔を輝かせてたんだろう。男は懐から黒い小さな手帳を取り出すと、中は見せられないけどね、と表紙と男の顔写真のあるページを見せてくれた。凄い、本当にサスペンスでよく見るやつと同じだ。
「ミモリ、タクミ…?」
「あ、僕の名前?ミモリじゃなく、フカモリ。深森 匠。君の母さんの、古い友達だよ。」
男、深森さんの声を聞きながら、俺はもう一度黒い革表紙をじっと眺め、それからやっと手帳を返した。
「刑事ってことは、毎日事件ばっかり追いかけてるんだ。羨ましいな。」
「冗談言っちゃいけない。刑事の仕事なんてない方がいい。あと、消防署と病院もね。」
深森さんは遠くの空を眺めながら、大きく伸びをした。つられて俺も一つ欠伸をする。
「でもさ、何の変化もない毎日なんてつまんないよ。何か事件が起きれば…」
俺の言葉は深森さんの笑い声で遮られた。深森さんは笑いを溜息に変えると、また笑顔を作って、君が気付いてないだけで、意外と起きてるものだよ、事件は。そう言った。

すっかり退屈していた犬を連れて家に帰ると、珍しく母さんが玄関まで出迎えに出てきた。どういう風の吹き回しかと思ったら、これからパートだという。もうそんな時間だったのか…。
「今日は人と会う約束があるから、遅くなるわ。先に休んでなさい。」
そう言った時も、長い髪を掻き上げながら夕食の指示をしていた時も、俺と母さんの目が合うことはなかった。

息子の俺が言うのもなんだけど、確かに母さんは綺麗だ。栗色に染めたちょっとクセのある髪は背中に届く長さで、顔の真ん中で分けた髪を掻き上げる癖がある。俺を育て上げてくれた腕は、白くて細い。パート先のおばさんたちの中では一番華奢で、あそこで働きだして随分になるけど、未だに中学生の息子がいるようには見えないと言われているらしい。たまにケーキなんかを焼いていったりして若い男の憧れの的になってるみたいだけど、何があっても決してサスペンスを見逃さないサスペンス好きの一面は、俺しか知らない。

母さんを見送った後、家の中に入ると夕食を確認し、それから父さんの仏壇の前に座った。今でも母さんは毎朝俺を起こす前に父さんに線香をあげている。父さんは、俺がまだ母さんのお腹の中にいた頃に死んだそうだ。俺もいつか見た母さんの真似をして、父さんに線香をあげた。手を合わせてみても、そこに父さんの写真はない。写真が大嫌いで、まともなものは一枚も無かったんだという。でも、俺は父さんによく似ているとかで、母さんは父さんの話をするとき、俺の顔を遠くを見るような目で見ながら話す。実を言えばそういうときの母さんの顔は余り好きじゃないんだけど…。そこまで考えて、俺は強く頭を振った。父さんの前で何考えてるんだ。
「母さんは、俺が守るから。」
取り繕うように手を合わせながら、それでも心の奥にある優越感に気付かずにはいられなかった。

その日以来、母さんは何だか機嫌がいい。母親が毎日浮かれ気味な事以外は、やっぱり何の変哲もない日が過ぎていった。





そんなある日の夕方、俺が台所に入ろうとしたら、中から声が聞こえた。聞いたことのないような母さんの色っぽい声と、あれ以来犬の散歩の途中でよく会う深森さんの穏やかな声だった。
「明子、目を閉じて。」
「深森君…だめよ、やっぱり。」
「いいから、ほら…。」
俺だって、大体の雰囲気は分かる。Uターンして戻るべきだってことくらい分かってるし、覗いちゃいけないって、誰かが警笛を痛いくらいに鳴らしているのも聞こえてる。けど、震える手はドアを開けて、落ち着きなく動き回る目はその向こうの光景を映し出した。白い上着とベージュのスカートを穿いた母さんは俺に背を向けていて、黒いスーツを着た深森さんに抱かれていた。下ろした母さんの髪を梳いていた深森さんの手が頬に触れ、母さんが少し顔を上げた。深森さんは俺に気付くと、上目遣いに俺の目を見て一瞬にやりと笑い、母さんに深く、深く口付けた。

頭の中は真っ白だった。何か沢山考えていたような気もするけど、何も思い出せない。

ただ、気付いたときには俺は母さんを抱きかかえていて、俺も母さんも、深森さんも服が真っ赤で、それは母さんの血だった。
「僕は君に会ってから今まで、何一つ嘘は言わなかった。」
刑事の、固い声が聞こえた。
「君は『事件』を起こしたくて、母親を殺したんだ。」
目の端に、血塗れのナイフが映った。俺はそのナイフを掴むと刑事に斬りかかった。一回、二回、三回。勢い余ってよろめいたところを、刑事が取り押さえる。ナイフを奪われ、後ろ手にされた手首に手錠の冷たさを感じた時、耳元で刑事の穏やかな声がした。
「そういえば、君と僕はよく似ているね。」


あの時見たサスペンスの刑事は、お決まりの台詞の時、どんな顔をしていただろうか。にやりと、笑ってはいなかっただろうか。
ただ一つ確実な事は、事件は、起きていた。ずっと前から。それだけだった。




――――おしまい




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